自己肯定感は上げる必要があるのか? ないのか?
昨今、自己肯定感という言葉が色々な所で目につきますね。
私も実は
自己肯定感がかなり低い!
ちょっとしたことで落ち込むし、なんでもネガティブに考えがちです。
どうにかならないでしょうか?
巷でも
・自己肯定感が低いのは良くない
そして
・自己肯定感が低いあなたが自己肯定感を高める方法は
といったものが大多数。
たまに自己肯定感が低い方が良いという話も聞くには聞きますが、私にとってはあまり説得力がありません。
そこで私も色々な事を試したのです。
何とか自己肯定感を上げようと努力したんです!
しかし結果は散々。
自己肯定沼にはまり込んで抜けられない日々。
そんなある日気が付きました。
私は自己肯定感ってやつに無用に振り回されていないか? と
このコラムでは私のように自己肯定感が低い人が、自己肯定感に振り回されずに生きることをお勧めするものです。
・現在自己肯定感が低い事で悩んでいる人
・自己肯定感を上げるための方法を試したけれど効果がなかったと感じている人
・自己肯定感に振り回されないで生きる方法が知りたい人
向けです。
これを読めば
自己肯定感に縛られた日々からおさらば。
あなたも自己肯定沼から抜けられるようになりますよ
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そもそも自己肯定感って何?
自己肯定感って何なのでしょう?
ウィキペディアによりますと
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
自己肯定感(じここうていかん)とは、自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉であり[1]、自尊心(英語: self-esteem)、自己存在感、自己効力感(英語: self-efficacy)、自尊感情などと類似概念であり同じ様な意味で用いられる言葉である[2][3][4][5]。現在、これらの言葉は多義的に用いられることが少なくなく、結果としてあらゆる肯定的な心理的要素を表現する包括的名称(umbrella term)となっているという指摘がある[6]。
簡単にいうと
「自分自身の価値を自分自身で肯定できること」
と言えるでしょう。
この自己肯定感を上げると
・自分に自信がついて仕事やプライベートで評価されるようになる
・自分に余裕ができるので他人の意見も尊重できるようになる
というようなメリットが挙げられるようです。
素晴らしい!
逆に自己肯定感が低いと
・自分に自信がないので物事に優柔不断になる
・他人に依存してしまい、騙されやすくなる
という酷い目にあうのです!
こりゃ、大変です!
何としても自己肯定感を上げないと幸せな人生を送れそうにありませんね。
巷で言われている自己肯定感が低い原因
自己肯定感を上げるのが幸せに生きる必須要件!
(本当は違うのですけどね、その理由は後述します。)
では、そうなってしまった原因は何でしょうか?
巷で言われている自己肯定感が低くなってしまう主な原因は
・幼少期から「お前はダメだ」と刷り込まれた
・生まれ持った性格のせいで物事をネガティブに考えてしまう
ということ。
確かに私は常に「お前はダメだ」って言われてきたように思います。
幼少期、常に人よりも動作がのんびりしている私は、そのたびに
「さっさとやりなさい!」
と親には怒られていました。
学校に上がったら上がってからは、常に偏差値で評価される日々。
偏差値を元に「お前はダメだ。もっと勉強しろ!」と言われ続けたのです。
逆に私は聞きたくなります。
「お前はダメだ」
と言われた事のない人ってこの世にいるんでしょううか? と。
そして
「お前はダメだ」って言われ続ければ、そりゃネガティブにもなりますよ。
違いますかね?
巷で言われている自己肯定感を上げる方法
さて、そんな自己肯定感がすっごく低い私でも、自己肯定感を上げるための方法があるようです。
私も色々調べて、実践してみました。
・不安を書き出し、今の自分を認めてあげる
・第三者としてアドバイスを考えてみる
うーん、自分を振り返り、冷静になることには効果があるのは認めます。
だけど、これやったところで自己肯定感が上がるなんてことはなかったです。正直言って。
・自分を責めすぎない
・何でもネガティブに捉えない
・自分の感情や思いを優先してみる
はは、こちとら、これができないから悩んでるんだよ!
・後ろ向きな言葉を肯定的な言葉に変換してみる
よくあるポジティブシンキング、あるいは自己暗示ですね。
これって逆に自分のネガティブな感情を否定するので、
「ネガティブなことを考えいる自分はダメ」
と思えてきて、自己否定感に追い打ちをかけるだけなんでした。
何をやっても上手くいかない……
私は自己肯定感の沼に落ちて、ずぶずぶと沈んでいったのです。
自己肯定感をもう一度再考する
「自己肯定沼」でにっちもさっちもいかなくなった私はもう一度自己肯定感というものを落ち着いて考えてみることにしました。
前述の通り自己肯定感とは
「自分自身の価値を自分自身で肯定できること」
です。
自分の価値って何だろう?
色々考えているうちにあることに気づいたのです。
ここでいう価値とは、2つのことを言っているのだということを。
「おならが臭いこと」の「利用価値」
いきなりですが、満員電車であなたはおならをしたことはありますか?
私はあります。
しかも、かなり「臭いおなら」です。
隣にいる女性がその異臭に気が付いて、発生源の私ををにらんできました。
私はその女性と目を合わせないようします。
そして電車が駅に着くと真っ先に電車を降り、足早にその女性から逃げたのでした。
このように「臭いおなら」は全く害ばかりで価値がありません。
しかし、臭いおならに価値がある世界になったことをちょっと想像してみてください。
宇宙人が遥か、かなたから地球にやってきます。
宇宙人の目当ては地球人がする「臭いおなら」です。
なぜなら、宇宙人にとって「臭いおなら」はとても貴重な栄養源だからです。
地球にきた宇宙人は「臭いおなら」をする地球人は大切にします。
一方「臭いおなら」をしない地球人は皆殺しです。
結果、地球上には「臭いおなら」をする地球人だけになったとさ。
めでたし、めでたし。
宇宙人に支配された地球では、人間の価値は知能指数でも経済力でもありません。
「臭いおなら」です。
宇宙人にとって貴重な栄養源である「臭いおなら」をする地球人には利用価値があるということなのです。
つまり
その人の価値=(第三者の)利用価値
なのです。
こういう風に考えると我々が言っている価値って利用価値を指しているように思いませんか?
会社の中では、会社の中ででいかにその人の利用価値が高いかで、より高い地位を獲得しているのではないでしょうか?
利用価値と言う価値の特徴を考えると以下のようになります。
・自分以外の第三者が基準を決める
・基準は変わる(臭いおならも価値あるものになる可能性がある)
「おならが臭いこと」と「存在する事の価値」
では、今度は自分の大事な人、例えば
恋人、親、子供、配偶者、あるいは自分自身
が「臭いおなら」をしたらどうでしょう?
その人を大事するあなたの気持ちは「臭いおなら」のせいで変わるでしょうか?
変わらないですね。
いや!
私はだんな(かみさん)のオナラが臭いので離婚したんだ!
そんな人がもしかするといるかもしれません。
確かに心変わりをさせてしまう程「臭いオナラ」は存在するかもしれません。
それでも、そのオナラの主が自分自身だったとしたら?
「臭いオナラ」をした自分と「臭いオナラ」をしていない自分で自分自身を大事する気持ちは変わりますか?
私は思うのです。
自分が自分自身を大事にする気持ちは一生変わらないと、
この自分自身を大事にする気持ちは自分自身がこの世界に「存在する事の価値」からきているものです。
「存在する事の価値」は以下の特徴をもっています。
・対象を大事にする気持ちに根差している
・誰が決めたわけではなく、既に備わっている
・何があっても不変である
自己肯定感で言っている価値は?
では自己肯定感で言っている
「自分自身の価値を自分自身で肯定できること」
とは
「利用価値」のことを言っているしょうか?
それとも
「存在する事の価値」のことを言っているのでしょうか?
私は「利用価値」のことを言っているのではないのかと思うのです。
つまり、
「自分自身の利用価値を自分自身で肯定できること」
ということです。
しかしちょっと考えてみてください、
先ほど言った通り、利用価値は常に変動するので、それを肯定し続けることなんて土台無理だと思うのです。
だから、自己肯定感は常に上がったり、下がったりするんですね。
自己肯定感を上げる事は一時的にはできます。
しかし常に上げ続けるのは無理。
そんな自己肯定感を振り回されても、幸せになれないと私が言うのはこの辺りにあるのです。
自己肯定感に振り回されないようにするには
では、利用価値を肯定し続けることはできないけれど、自分自身が「存在する事の価値」はどうでしょうか?
「存在する事の価値」は自分自身を大事にする気持ちに根差し、不変です。
自分自身を大事にしようとする「存在する事の価値」を認められれば、それは自身の幸せにつながるのではないかと思うのです。
そして、さらに他者が「存在する事の価値」をも認める事ができたなら、素晴らしい事ではないでしょうか?
まとめ
私は自分の「利用価値」を考えるなとも、「利用価値」を上げる努力が無駄ともいうつもりはありません。
私たちは社会で生きている以上、自分が生きるコミュニティで「利用価値」を上げていこうとする事は当然の事です。
ただ、
「利用価値」なんて「臭いオナラ」みたいなもの。
いつか消えてしまいます。
そんなオナラのような自分の「利用価値」に囚われてべきではない
と言っているのです。
どんなに自分の「利用価値」が落ちようとしても自分自身が「存在する事の価値」を大事にして生きていければ良いのではないでしょうか?
みなさんも、自己肯定感に振り回される事なく、自分自身が「存在する事の価値」を見つめて生きていきませんか?