私が夫婦喧嘩からつかみ取った「空気を読む」から自由になる方法とは
私たちは「空気を読む」という行為にどれほどの時間を費やしてきたのでしょう?
正直なところ計り知れません。
私たちの多くは、社会の中で生きるために、自然と他者の気持ちや期待に耳を傾け、自分の行動を調整してきたのではないでしょうか。特に、家族や大切な人との関係において、そのプレッシャーは格段に増すことが多いのです。
「この言動で相手を傷つけてしまうのではないか?」
「これをすることで周囲の評価はどう変わるのだろう?」
そんな疑問が、日常のあらゆる場面で私たちの心を埋め尽くします。
空気を読むことは、誰かとのコミュニケーションを円滑にするためのスキルとして育てられ、
それが自分の存在そのもののように感じられるほどでした。
しかし、この「空気を読む」ことの裏側には、見えないプレッシャーや自分自身を犠牲にする側面が潜んでいるのもまた事実。
今回は長年私が感じていた妻との関係から「空気を読む」という事を考えていきたいと思います。
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常に妻の期待に応えようとする日々
結婚生活が長くなるにつけ、日々の生活の中で、妻の期待を感じ取ることは、私にとって自然なこととなっていました。
晩ごはんの後、私は皿を洗って台所を片付けることを日課としています。
これは妻に喜んでもらうため、そして「家事の手伝いもしっかりとやっている」という存在を確認するための行動でした。
しかし、実際のところはどうだったのでしょうか。
私が思い描いていた「期待」の答えとは異なり、妻からは「今日はここに片付けておいてもらいたかった」とか「汚れがのこっているわよ」という些細な文句や指摘を受けることがたびたびあります。。
私はそれに対し、憤りや失望を感じることがしばしば。
妻のため、家のため、と思って行動しているのに、その期待が裏切られる瞬間が重なっていく中で、心の中には「どうして私の努力や気配りを理解してくれないのか?」という疑問が積もり積もっていきました。
このような日常の中で、私は「空気を読む」ことの真の意味や、それによって自分自身が置かれている状況を改めて考えるきっかけを持つことになります。
憤りの中の自問自答
日々の妻とのコミュニケーションの中で、私は繰り返し憤りを感じるようになりました。
妻の期待を満たそうと、最善を尽くして行動している自分。
そんな自分がなぜ認められないのか。
そして、私が頑張って行動した結果、期待外れのフィードバックを受け取るたび、心に小さな傷が増えていくように感じました。
しかし妻も同じように私の不用意な言動で傷ついていたのかもしれません。
「俺が一生懸命やっているのがわからないのか?」
「あなただって私が必死にやっている事を認めてくれないじゃない」
気が付けばこんな言い合いが日常茶飯事になっていました。
「こんなはずじゃなかったの」
私は夫婦喧嘩の後、私は決まって自己嫌悪に陥るのでした。
ある夜、私はREBTを行う事にしました。
「私は妻のために頑張っているのに、なぜそれが伝わらないのだろう?」
「私のやり方が間違っているのか、それとも妻の期待が高すぎるのか?」
「真面目に、誠実に手伝っているのに、それがなぜ評価されないのか?」
これらの質問を自問自答しながら、私は気づき始めました。
私が「空気を読む」行為や妻の期待に応えようとする動機の背後には、深い部分での自分の存在や価値を確かめたいという欲求があることに。そして、その確認のために、妻のリアクションや評価を求めているのではないかと。
目覚め: 妻の感情は妻のもの
憤りの中での自問自答を繰り返すうち、ある日突如として一つの明快な答えが私の心に浮かび上がりました。
「妻の感情は、妻のものである」
というシンプルな真実です。
長い間、私は妻の期待に応えることで、その感謝や評価を通じて自己の価値を確かめようとしていました。
しかし、それは妻の感情や反応を私の「ツール」として使っているに過ぎなかったのです。
妻の不満や評価は、私の行動や存在の価値を100%正確に反映しているわけではなく、それは彼女の独自の感じ方や考え方、過去の経験や価値観に基づくものであることに気づいたのです。
そうなのです。
私の中に
「妻の期待に100%応えなければならない。妻の期待に応えられない私は価値がない」
という不合理な信念(イラショナルビリーフ)を見つける事ができたのです。
この気づきは、私の心に大きな変化をもたらしました。
私はもはや妻の反応や評価に縛られることなく、自分自身の行動や選択を尊重することができるようになりました。
同時に、妻の感情や反応も彼女自身のものとして受け入れ、それに対する過度な責任感やプレッシャーから解放されることができました。
新しい生き方への一歩
目覚めを迎え、妻の感情や期待を彼女のものとして受け入れた私は、新しい日常の中で違う視点を持つようになりました。
もはや「空気を読む」ことで他者の期待に応えようとするプレッシャーから解放され、真の自分を生きる自由を手に入れました。
私は、自分の価値観や信念を大切にしながら、日常の選択を行うようになりました。
家事をする時も、妻の期待や評価を気にせず、私自身が納得できる方法で行うように心掛けるようになったのです。
そして、それは妻にも伝わったようで、彼女も私の選択を尊重してくれるようになりました。
この新しい生き方は、私自身の内面の平穏や満足感を増加させました。
また、妻との関係もより深く、お互いを尊重し合うものへと変わっていったのです。
私がこのブログを書くことで伝えたいことは、他者の期待や評価に振り回されることなく、自分らしく生きる大切さです。
それが、真の自分を見つけ、周りとの関係もより豊かにする鍵となることを、私の体験を通じてお伝えしたいと思います。
新しい生き方への一歩は、自分自身の心の中から始まります。
そして、その一歩が、あなたの人生をより豊かなものにすることを確信しています。
まとめ: 空気を読むことの意味を再定義する
私たちの日常は、無意識のうちに「空気を読む」ことで形作られることが多いものです。
しかし、この物語を通して私が学んだことは、その行為が時として自分自身の心や感情を犠牲にするものであるということでした。
「空気を読む」とは、他者との関係性を円滑に保つためのツールであり、それ自体が目的ではありません。
それを目的化し、他者の評価や感情に振り回されることで、私たちは真の自分を見失ってしまうことがあるのです。
しかし、今私は「空気を読む」ことを再定義しました。
それは、他者の感情や期待を尊重し理解する行為であると同時に、自分自身の感情や価値観も尊重するバランスを見つけることです。
私たちが他者との関係の中で本当に大切にすべきことは、相手と自分の間の調和と共感であり、一方的な期待や評価に縛られることではないのです。
このブログを読んでくださった皆様には、自らの「空気を読む」という行為を一度見つめ直すきっかけとなり、それを通じて真の自分らしさを見つけ、豊かな人間関係を築いていただければと思います。私の体験が、あなたの日常に少しでも明るい光をもたらすことを心から願っています。