【千原せいじに学ぶ生きる極意】良いこだわり、悪いこだわりの違いって何?
「生きる上で大切にしているのはこだわらない事、無理せえへん事」
お笑い芸人 千原せいじの言葉だ。
こだわりは確かに人を苦しめる。
私も
「出世するために上司から常に評価されるべき」
という考えを長年もっていた。
この考えを持っていたために、評価が落ちると家族に八つ当たりしたり、その事自体を忘れるために酒にはしったりしたものだ。
そして精神のバランスを崩した。
しかしながら、上司の方針もコロコロ変わるし、人事異動で違う部署から上司が来たりして、常に評価されるなんて不可能だとわかったのだ。
「上司から評価された方がもちろん良いが、評価されない事もある」
という考えに代わってかなり生きるのが楽になった。
これはまさに千原せいじの「こだわらない事」の好例だ。
しかし、人たるもの全面的にこだわりを捨ててよいものだろうか?
そんな疑問を持ちながら、立川談志の弟子立川談慶が書いた
「不器用なまま、踊りきれ 超訳立川談志」という本の中で立川談志が言ったあるエピソードを読んだ。
元横綱千代の富士が1990年に史上初の通算千勝に到達した。(中略) 練馬の自宅で報道番組をみていた談志が「千代の富士は努力の人です」と称えていた有識者のコメントに対して、突然こう呟いた。「いや、千代の富士は努力じゃねぇんだよ。ああいうふうに千回勝たなきゃ、彼自身が不快だったんだよ」つまり談志は「千代の富士は自分の不安を解消するために千勝した」と捉えたようだった。
不器用なまま、踊りきれ 超訳立川談志(立川談慶著)
千勝しないと不快感まで感じてしまうこだわり。
それはよくも悪くもプレッシャーとして大きく千代の富士にのしかかったものと想像できる。
しかし、この千勝のこだわりがなかったら、あの大横綱は誕生しなかっただろう。
こだわりを持たない方が生きやすいのは確かにそうだが、千代の富士の例をみるまでもなく、こだわりがないと大きな目標に到達できないのではないか?
人はこだわりを持つべきなのか? それとも
こだわりを持たざるべきなのか?
こだわりに関して色々考えていく中で最近ある結論に達した。
それは
今目指している目標が本当に自分が成し遂げたい目標かどうか?
もし自分が本当に成し遂げたい目標であれば、こだわりを持った方が良い。
しかし一方で自分は本当はやりたくないけれど、生きていくために便宜的に目指す必要がある目標はこだわらない方が良い。
この考えを自分の例と千代の富士の例で考えていきたいと思う。
例えば私の「出世するために上司から常に評価されるべき」だが出世って本当に自分がしたいことなんだろうか?
出世は自分が生活のためのお金を十分でるための手段であったり、自分の社会的なステータスを上げる手段ではある。
目標ではなく、あくまで手段だ。
しかも自分の人生で本当にしたい事は、読んだ人がほっとするような文章を生み出す事、であり、サラリーマンを続けているのは、生きる糧としてだ。
サラリーマンとして上司から評価されることなんて自分の人生では2の次なのだからこだわりを持つ必要なんてさらさらないのである。
一方千代の富士は、本当に千勝を達成したかった、それが彼に人生の目標だったのだ。従ってどんどんこだわるべきだし、こだわったところで精神のバランスは崩れない。
逆を返すと、精神的にバランスを崩している時は、今取り組んでいることが本当に心底自分が成し遂げたい事なのか考えるようにすればよいのだ。
私たちは無意識の中に社会のルールとか常識に縛られて、こだわりを持つようになってしまうが、生きづらいと思う背後には、本当にやりたい事をできてない、させてもらっていないという状況がある。
是非まずは自分の人生の中で何を生み出したいか? という目標を見つめなし、目標以外に関しては便宜的なものとしてこだわりを捨てた生き方をしてほしい。
千原せいじの言葉を私なりに修正すると
自分が真に目指したい事は徹底的にこだわれ。
但しそれ以外はこだわりを捨てて取り組む事。
それが人生をうまく生きるコツ。(和田まさし)