【アインランド哲学とREBT】「集団のために自分を犠牲にすべきだ」を論駁する
昭和時代ならいざ知らず、令和時代になっても
「集団のために自分を犠牲にすべきだ」
という考えが無意識に刷り込まれているのを感じる事はないでしょうか?
会社のため
家族のため
社会のため
に頑張る、お父さん、お母さんたち。
会社のためになるのであれば、と自分を犠牲にするサラリーマンのお父さん
子供のためと自分の睡眠時間を犠牲にし弁当を作るお母さん
しかし、ちょっと待ってください。
その行為は確かに望ましいものではあります。
しかし、自分を犠牲にする行為。
その行為を絶対的な価値を置くのは「イラショナルビリーフ(固定的信念)」です。
今回は多くの人々がもつ
「集団のために自分を犠牲にすべきだ」
というイラショナルビリーフに関して、アインランド哲学をつかって論駁
していこうと思います。
Table of Contents
そもそもアインランド哲学とは?
アインランド哲学とは1905年生まれのアメリカの国民作家、政治思想家
であるアイン・ランドが提唱した哲学です。
彼女の哲学は客観主義と呼ばれて利他主義を否定し、利己主義を提唱し支持します。
では、なぜ彼女は利己主義を支持するのでしょうか?
アインランドが利己主義を支持する理由
AIがいくら発達してもAI自体目標を持つことはできません。
一方で生命体は寿命があります。
寿命があるため生きている実体のみが目標を持つことができるし、目標を生み出すことができるのです。
そして生命体の究極の目標、価値とは生命体の生命自身なのです。
究極の目標が生命体の生命であり、生命以外はすべて生命という究極の目標を達成するための手段なのです。
さらにいうと、生というものは、それ自身が目的なのだから、あらゆる人間は、その人間自身が目的であり、
他人が目的を果たすための手段ではない。
他人の福祉のための手段でもない。
人間は自分自身のために生きなければなりません。
自らを他人の犠牲にしてはいけませんし、他人を自らの犠牲にしてもいけません。
自分自身のために生きるとは、自分自身の幸福の達成こそが人間の最高の道徳的目的であると意味しています。
利己主義は他者との利益衝突は起こらないのか?
利己主義を批判する人たちは、
「それぞれの人間が自分の利益ばかりを優先した場合、利益衝突は起こり、とんでもない事になる」と反論するでしょう。
アインランドは
「人間的善は人間の犠牲など必要としないし、誰かが誰かの犠牲になることによって成就されるものではない、と考えます。
獲得するのに値する努力もしないのに獲得することを欲望する事などしない人間どうしの間には、利害の衝突などありえません。
誰もを犠牲にせず、犠牲など受け取らず、価値と価値を交換する商人として互いに取引する人間同士の間では利害は衝突しません。
(中略)
商人とは、自らが獲得し所有しているものから儲ける人間です。獲得するのに値する努力もしないで手にい
れたものは、与えもしないし、とりもしない人間です。
商人は他人を支配者とも奴隷とも扱わず、独立した同等のものとして扱います。
【利己主義という気概 アインランド著より抜粋】」
しかしながら現実はどうでしょう?
必ずしも現実世界では、アインランドがいうような「理性的な人間」ばかりではありません。
したがって、現実世界では必ず利害衝突は起こりえるのです。
利害の衝突が発生する現実世界においても利己主義は支持できるか?
アインランドは利己主義を批判する利他主義を以下のように否定しています。
「(利他主義は)人間には自分自身のために存在する権利等ないと考え、他人への奉仕だけが人間の存在を正当化する考え、自己犠牲こそが人間の最高の道徳的な義務であり、美徳であり価値であると考えるのですから。(中略)利他主義は、死を究極の目標であり価値基準と考えます。死が価値基準なのですから、断念、諦念、自己否定など、自己破壊を含めたあらゆる形式の苦痛こそが、利他主義の提唱する美徳になるのは論理的帰結です。【利己主義という気概 アインランド著より抜粋】」
人間の究極目標は生命自体なわけですから、死を志向する利他主義は否定されるわけです。
利己主義であっても他人にも自分にも価値を置くことはできる
利他主義は他人に価値を置くことは自分を犠牲にすることである事ととらえます。
このような考え方にアインランドは以下のように反論しています。
「他人に価値を置くという事と自分に価値を置くということは両立するものであるのに、利他主義は他人を助ける事こそ至上の美徳とするので、利他主義の美徳を守ろうとすれば、他人に価値を置くことは自己を犠牲にするということになる。このように自分にも他人にも価値を置くという、もう片方の選択肢が消されてしまう類の二分法は、利他主義が与える非人間的な影響の究極の産物である。【利己主義という気概 アインランド著より抜粋】」
アインランドはこのように
他人に価値を置くこと=自分を犠牲にする事
という利他主義的な考えを痛烈に批判します。
そして愛を例に自分と他人、両方に価値を置くことが可能であることを具体的の以下のように説明しています。
「愛と友情は非常に個人的、利己的な価値である。他人の人格の中に自らが価値があると認めるものが在ることへの応答である。
(中略)妻を情熱的に愛する男が深刻な病気の妻を治すのに財産を使うようなときに、その行為は妻のための犠牲であって、自分のためではないと主張するとしたら馬鹿げているだろう。 妻が生きようが死のうが、個人的に利己的に考えれば、夫にとって大差ないと主張すれば、 実に馬鹿げたことになるだろう。愛する人々の利益のために人間が引き受ける行為ならば、どんなものでも犠牲ではない。 その人間の価値の階層性において、またその人間に開かれた選択という文脈において、その人間にとって最も個人的に(かつ 合理的に)価値あるものを、 ある行為が成就するのならば、その行為は自己犠牲ではない。前述の例において、妻が生き延ぴることは夫にとって彼の金が買える他の何ものよりも大きな価側がある。 夫自身の幸福にとつで最大の重要性がある。こうした夫の行為は犠牲ではない。
しかし、この夫が、 他の十人の女の生活のためにそれもそのうち 誰ひとりとして彼にとっては意味のない女の生活のために金を使い, 妻を死なせたとしたら、どうだろうか。そうなると、この夫の行為は自己犠牲になる。 客観主義と利他主義の差は、ここでもっともはっきりする。 ただただ犠牲が行為の道徳的原則となると、 この夫は他の十人の女のために妻を犠牲にするのだろう。 この場合、 妻とその他の十人の女を区別するものは何か? 選択をする夫にとっての妻の価値以外に何もない。 夫の幸福には、妻が生き延びることが必要だという事実以外は何もない。
客観主義という倫理はこの夫に告げるだろう。 あなたの最高の道徳的目的はあなた自身の幸福の追求であり、 あなたの金はあなたのものだと。 妻を救うためにあなたの金を使えと。 それこそが、あなたの道徳的権利であり、 あなたの合理的道徳的選択なのだと。
(中略)
救出出されるべき人間が見ず知らずの他人でない場合は、 人間が進んで冒そうとする危険はその人間が助けようとする人間に置いている価値の大きさに比例する。 その人間が助けようとする人間が愛する男性とか女性であるならば、 そのときは人間は彼や彼女を救出するためならば白分りの生命を進んで投げ打つことができる。 愛する人間のいない人生など耐えることができないであろうから、という利己的な理由のために【利己主義という気概 アインランド著より抜粋】」
まとめ
いかがだったでしょうか?
一見「他人のために生きる」という利他主義を頭から我々は信じ、利己的に生きる事を後ろめたく感じてしまいます。
「空気を読め!」
「他人を気遣え!」
等という考えは正にそうです。
確かに他者との調和は必要ですが、アインランドが指摘した通り、まず自分自身の生を第一に考え、物事を理性的に考え、合理的に判断することが大事なのではないでしょうか?
このような態度をアインランドは誠実さ(Integrity)と言っています。
「誠実さ(Integrity)とは人間の信念と価値への忠実さである。自らの価値観に合致した行動をとるという方針であり、 自らの価値観を実際的な現実へと表現し、 それを支持することである。 価値観を現実に翻訳するという方針である。 ある男がある女を愛すると明言しても、 この男の行動が彼女に対して無関心であり、 かつ敵対的であり、 害を与えるものであるならば、この男は道徳的ではない。この男を不道徳的にするのは、この男の誠実さの欠如である。【利己主義という気概 アインランド著より抜粋】」
我々は常に道徳的でありたいものである。